【聖霊降臨節第22主日礼拝】 10月21日(日)午前10時半
第一コリントによる説教「礼拝にふさわしい姿とは」 牧師 佐藤誠司
聖書:詩編27編1〜14節・第一コリント11章1〜16節
今日の第一コリントの箇所を読んで、さすがのパウロ先生の言葉もここだけは時代錯誤と思われた方もおられるかも知れません。確かにここでパウロが述べている男女観は男女平等が叫ばれる現代に通じにくい面があります。しかし、パウロはここで自らの男女観を披瀝しているのではない。礼拝にふさわしい男女の姿をとおして私たちキリスト者の礼拝の姿勢そのものを問い直しているのです。
カトリック教会は今もその伝統を残していますが、当時のキリスト教会では女性は皆ベールを頭にかぶって礼拝を守ったようです。ところが、コリント教会の一部の女性たちがベールをかなぐり捨てたのです。男と同じように語り教え指導をし始めたのです。パウロも女性が教会で指導的立場に立つことは認めています。しかし、指導的立場に立つことと、女性であることをかなぐり捨てるのと、どんな関係があるのか? 女性であることを止めなければ、指導的立場に立てないのか? パウロはその一点を問います。じつはコリントの女性たちの行動の背景にはギリシア的な男女観がある。それによれば、人間にはもともと男女の別はなく、単一性だったが、人間の犯した罪のために、神々が罰として人間を男女に分けた。だから、今でも男女は互いに引かれ合い、一つになることによって、単一性だった原始を想起する。これがギリシア的男女観です。これが案外現代にも顔を出します。ユニセックスがそうです。どこか暗い、後ろ向きの男女観でしょう?
聖書は違います。神が初めから人を男女にお造りになって、祝福してくださったのです。おおらかなのです。男は男であることを恥じなくて良いし、女も女のまま御前に立てるのです。神が祝福してくださった男女をなぜ恥じるのか? パウロはそこのところを言うのです。教会の結婚式を見てください。パウロの言わんとすることがお解かりになるでしょう。男と女が最も美しい姿で神の前に立っている。互いに支え合う男女こそ、神がお望みになる人間の姿、礼拝者の姿ではないでしょうか。ここには男女同権とか男女平等論はないのです。あるのは礼拝にふさわしい男女の姿なのです。
「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。」
今週も祝福を祈ります。



【予告】
○次週の主日礼拝 10月28日(日)午前10時半
 説教「味わい、見よ、主の恵み深さを」 
 聖書:詩編34編9〜11節・第一コリント11章17〜34節


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