【降誕節第2主日礼拝】 2008年1月6日(日)午前10時半
第一コリントによる説教「教会が語る言葉とは」 牧師 佐藤誠司
聖書:エレミヤ書1章4〜10節・第一コリント書14章20〜25節
主の年2008年が明けて最初の主日を迎えました。この日、私たちに開かれた御言葉は旧・新約共に「言葉」に関する箇所です。これはこの1年、私たち教会が何を語るべきかを示してくれるものですから、そういう箇所が与えられたことを、私たちはまず神に感謝したいと思います。
言葉というと、日本語では「言の葉」と書くように、どこかしら軽い意味合いがあります。「百聞は一見に如かず」などという言い回しもそれを証明しています。ところが、聖書は言葉を大変に重んじます。言葉は神が与えてくださる賜物、聖霊の賜物だからです。しかしながら、神は言葉だけを与えてくださったのではありません。言葉に添えて使命を与えておられる。言葉と使命。これはコインの両面なのです。エレミヤが与えられた言葉を見れば、それはよく解ります。
「見よ、わたしはあなたの口に わたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに 諸国民、諸王国に対する権威を委ねる。」
与えられた言葉の中、開かれた御言葉の中に使命はあるのです。そのような言葉を使徒パウロも重んじました。1章ですでに「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」と語っているほどです。彼にとって言葉とは主が十字架で贖い取って与えてくださった恵みなのです。
ところが、コリント教会の礼拝で、言葉の混乱が生じました。言葉は聖霊の賜物と言いましたが、霊の賜物に熱心のあまり異言を重んじる人々が現れたのです。礼拝の中で霊を受けたと称する人たちが突然、呻きのような言葉を上げるのです。パウロは異言が聖霊の賜物であることを認めています。しかし、誰にも解らない言葉が教会を建て上げていくことになるか? パウロの問いかけはそこに集中します。そして異言を重んじる人たちの本質を見抜いて、こう言います。
「兄弟たち、物の判断については子供となってはいけない。」
パウロは異言に走る人たちの本質を「子供」だと見抜いているのです。そうではない言葉があるはずだ。十字架の言葉、十字架の主が命にかえて与えてくださった言葉、使命が託された言葉が教会には与えられているのです。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です。」
この十字架の言葉、愛の言葉を私たち教会は日々聞いて、語っていきたい。そして伝えていきたいのです。共に恵みに与るために。2008年の歩みがすでに始まっています。その歩みが主の言葉によって導かれて、主の恵みと平和に満ちた年となりますよう、心から祝福を祈ります。
【予告】
○次週の主日礼拝 1月13日(日)午前10時半 降誕節第3主日
第一コリントによる説教「秩序を建てるために」
聖書:イザヤ書32章15〜20節・第一コリント14章26〜40節
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