【受難節第2主日礼拝】 2008年2月17日(日)午前10時半
第一コリントによる説教「朽ちない命、朽ちない体」 牧師 佐藤誠司
聖書:詩編90編1〜17節・第一コリント書15章35〜49節
詩編の90編を読みました。教会の葬儀でよく読まれる詩編です。私の母教会でも、葬儀で必ずこの詩編を読みました。そういうこともあって、この詩編は、どこか悲しいというか、無常を思わせる響きがあります。ところが、よく読むと、この詩編は復活の望みと体の贖い、そして永遠の命へのあこがれを歌っていることに気付かされます。
「主よ、帰って来てきださい。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください。朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。」
確かに陰鬱で暗いのです。しかし、その暗さの中にほのめいて見えるのは、この朽ちるべき体が贖われる望みではないでしょうか? この詩編は霊と体の二元論の中に救いを解消したりはしない。霊だけの救いへと逃げ込まないのです。
ところが、コリントの教会に極端な霊肉二元論に走る人々が現れたのです。それはギリシア思想に通じた知識人たちでした。知識が彼らを信仰の落とし穴に陥れたのです。彼らは肉体と霊は別物と考えて、霊を高尚なもの、肉体を卑しいものと理解しました。そしてここから復活を「解釈」したのです。もう行き着く先は見えています。霊魂の不滅です。霊魂の不滅こそが復活なのだと彼らは主張し、体の復活を否定し、「ならば死者はどんな体で復活するのか」とパウロに尋ねたのです。パウロは彼らに言います。
「愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではないか。」
あなたが蒔くのは、あとで成る体を蒔くのではない。ただの種を蒔く。土の中で朽ちる種を蒔くのだ。しかし、神は御心のままに、この命に新しい体を与えてくださるではないか。コリント教会の人々が自分の知識から出発するのに対して、パウロはあくまで神の御心から出発します。神は新しい命に、新しい体を与えてくださる。これこそ世の成らぬ先からの神の御心ではないかとパウロは、そこから出発するのです。
「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときは弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。」
霊肉二元論に走ったコリント教会の人々は「霊と体」と言いましたが、パウロは「霊の体」と言う。霊の体がやがて与えられるのだと言うのです。霊の体とは、神が生かしてくださる朽ちることのない体です。これはキリストの十字架と復活によって開かれた救い、体まで贖い取ってくださる救いなのです。私たちは、私たちが考えているよりも、さらに深く大きく救われているのです。なぜなら、これは神の御心だからです。今週も主の祝福が豊かにありますよう祈ります。



【予告】
○次週の主日礼拝 2月24日(日)午前10時半 受難節第3主日
 第一コリントによる説教「主に結ばれているならば」 牧師 佐藤誠司
 聖書:イザヤ書25章6〜10節・第一コリント書15章50〜58節


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